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欲と嫉妬にまみれた心の清掃
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絵の価格って、ほんとピンキリだよね。

路上で売られる数百円のものから、オークションで億を越えるものまで。

「なんでこの絵がこんなに高価?」
ってのあるよね。

私はそういう気持ちと実際の価格によるギャップが少ないことに気付きました。



画廊でA3くらいの大きさで180万円で売られている絵を見て、妙に納得してしまった。

花の絵だったのですが、安定した構図、難しい配色をやってのけている印象を受けました。
素人や凡人に描けないようなオリジナリティが出ていました。

名前は忘れたけど、この作者が何年もかかって積み上げた功績を感じました。



「良さがわかるというのも能力。アーティストの発掘や、買い付けができるのでは」
という助言をいただきました。

そうなのか…

もっと目や感性を磨いていこうと思いました。



そして、私は頭にあるものを描くことができる。
けっこう稀な絵を描くことができる。
コンスタントに描いていないから技術的に低いけど、その代わりになる体験をしている。

描くことも続けていこう。
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最近は謝ることが多いです。

やるべきことをためてこなせずに謝り、
悔しくて夜中に大声で泣いて騒音のため謝り、
チャリのブレーキ音がうるさいから謝りながら道を行く。



なんでこんなに謝らなきゃいけないんだ。

きっと謝る時期なんだ。

謝ればいいやという姿勢はいけないけど、謝ることに臆さない性質は大切な気がする。

謝る自分を悔しく思うのと同時に、いい謝りができるようにがんばろう。
人にお願いされてやっていることがあります。
ノーギャラ、しかも作業分担・委託不可能なことです。
大変だとわかっていたはずなのに、引き受けてしまったのです。


作業をやっていく中で思ったことは、
相手が同じように喜んだとしても、相手との関係によって自分の喜びが変わるということ。



どんな相手なら、相手の喜びが自分の喜びのように感じられるかを考えました。

ひとつは、全人格的に私の短所でさえ受け入れてくれる人かなあ。

つらいことを当事者のように悩んでくれたり、
心とか言動の汚い部分も受け止めてくれたり。

お互い受け入れあえば、家族のように魂がつながっているように感じられる。

その度合いによって、相手の喜びが自分の喜びになる。



ふたつは、自分が苦しまなくてすんでいることで相手が苦しんでいる場合かな。

貧困だったり、病気だったり、老化だったり。

機会の不平等は嫌いだから、解消されるとうれしい。



あとは、自分が施した割合に対して、相手が期待以上に喜んでくれた場合か。

ハンカチを拾っただけで跳びはねて喜んでくれるとか。



じゃあ私が世の中を0.00001%喜ばすためにできることは、
人をできる限り受け入れること、
機会の平等を減らすこと、
喜びまくること
でしょうか。

感覚は人それぞれだからなんとも言えませんが。
私には勝ち負けで判断する心の癖があります。
しかも負けに敏感。

太った…負けた…
彼氏いない…負けた…
お金・時間損した…負けた…

こんな言葉が頭を飛び交っているのです。



人に何かしてあげるという行為すら負けを感じます。
自分が施した量が多いと、まるで泥棒の被害に遭ったような負けた気分になります。

ごみ拾いとか介助のボランティアだと、ボランティアしている自分に酔いしれられるから大丈夫なんだけどね。
勝った気分になってるんだと思う。



なるほど…こんな思考していたら、愛されないわけだ。

負けず嫌いのいい点はいっぱいあるけど、なんでもかんでも勝ちたがるのは無意味。

勝つんじゃなくて、満足感を得て感謝したい。
人や運命を受け入れて感謝したい。
施した相手に喜んでもらえることに感謝したい。

感謝して生きられればもっと楽なのに。
人も幸せにしていけるのに。
寂しさの一因を考えた。



慕ってくれる人がいてありがたい。

私が廃人になると慕ってくれなくなるのかなと想像すると寂しくなる。

廃人になっても大切にしてくれる人を作るように、いいことをして生きなきゃ。



親は私が廃人になっても、かわいがってくれるのかなあ。

廃人になっても好きでいてくれるのは、親くらいかなあ。

そんな親を大切にしなきゃ。



こんな私でも好きでいてくれるという安堵感がほしい。

ほしいなら、まず人にあげなきゃいけないのかなあ。



廃人でも好きって、どういうことだ?

あなたがこういうことができるから一緒にいるのではなくて、存在するだけで安心します。
こんな感じ?どういうことだ?

波長やソウルメイト以外でどう説明すればいいんだろう。



どうすれば人に安堵感を持ってもらえるんだろう。

理由はないけど好きであることを示すにはどうしたらいいんだろう。

お願いに対して見返りを求めず受け入れるとか?
露骨じゃないサポートをするとか?
理由はないけど好きといってみるとか?



親子関係はDNAに「我が子が廃人でも愛せよ」と組み込まれている気がする。

親子以外だと、安堵感を与え合っているうちに、
たとえ廃人になったとしても好きでい続けられるようになるのかなあ。
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